外入は本郡の外浦に面し、最も入海になっているため、名称を外入と付したものと言われている。
古い昔、人家は郷にあり、宝暦年間頃は今の泊一帯は砂浜であった事は古い記録にもある。
海へ泊山の半島が突出し、その入海は自然の良港として古くから知られ、伊予、三田尻方面への海路の起点となっていたそうである。

外入港

元和2年頃、毛利公の臣で礒兼加賀守庄四郎と申す者200石の知行をいただき、現在の郷に落ち着いていたものである。当時は外入に150戸あったものと思われる。

部落の中央に山田神社、西光寺、浄念寺があり、山田神社は山田権現と称し、千年位前に今の伊勢山田より豊受大神をお祭りしたもの。
西光寺は元和5年再興したもので、現在で21世。
浄念寺は宝永元年安下庄より遷座し、現在の本堂は県内でも稀な建物で名高く、国宝にしたらよいと言っている。

明治7年頃、外入小学校があり、大正10年西方尋常高等小学校に合併された。
明治36年12月に外入郵便局ができ、初代局長は野口宏三氏であった。
明治10年頃、戸長役場があった。
明治23年西方村、沖家室村、外入村が合併し、家室西方と称し、今の平田町長の宅に村役場が置かれ、初代村長は西方の服部寿雄氏であった。
明治40年4月より大阪、門司間運航の大阪商船が通い始め、本郡では最初であり、大正の初頃まで続いた扱店は河本重助氏で、今のラジオ店である。そのため郡内各方面より商人及び出稼者が多数外入に集ってきたものである。
現在外入部落は戸数340戸余、人口1530人を有し、半農半漁が多く、農業兼商業も20%位ある。

公共機関としては中央病院、白木中学校、白木支所、白木農協、白木漁港、白木郵便局、巡査駐在所等あり、沖家室、佐連、地家室、安下庄方面、三ケ浦と国鉄バス、太陽汽船等の交通の便は良い。

白木郵便局1

白木郵便局

外入白木郵便局

南に面しているため、台風のあるごとに被害甚大にして、海岸一帯のみかんは枯死し、農家は今後の対策に悩んでいる。港湾は他の部落に比し、船舶の多い割りに狭隘を感じられる。
(昭和32年11月1日東和広報より)

外入海岸埋立地の巡査駐在所は従来台風ごとに甚大な被害を受け、待避にもテンヤワンヤの騒ぎを余儀なくされる状況に鑑み、関係当局においては早くからその善処策について検討中の趣であったが、昨年の第22号台風禍によりこれが抜本的対策を必至とすることになったので、この際むしろ移転改築を恒久最善策として現白木支所東隣に、坪数20坪、着工昭和30年12月18日、竣工31年3月7日で郡内唯一ともいうべき通風、採光とも申し分ないモダンな新庁舎が完成した。尚落成式は3月13日に催された。
(昭和31年4月1日東和広報より)

外入駐在所1

外入駐在所

周防大島では犯罪が少ない、というよりほとんどない。
小さな集落には警察官はいない。
駐在所があるのは大きな集落だけだ。
外入の駐在所は坂道の途中にぽつんと建って、ひっそりとしていた。

城山小学校の校歌募集があったのが昭和31年9月。
入選1篇三千円。
全国から38篇の応募があり、入選したのが若き日の星野哲郎だった。

山田神社
本神社の創立年月日は不詳であるが、元禄4年末の山田神社伝記写によれば、往昔田畠とも五穀の不作が打ち続き、殊に流行病に悩まされ人命を害いたるため、村人相議り伊勢国山田の外宮より豊愛媛大神を勧請し、五穀の豊穣を祈ったという。

三大実録異本には元慶2年6月23日、周防国正六位上赤田神、山田神並びに従五位下を授くとあり、この山田神が本神社であると言われている。

この時代には神社に位階を奉っていた風習があるところより見れば、すでに崇敬の篤かったことと思われる。

現存の棟札は300年前の万治2年、279年前の延宝8年、154年前の文化2年の3枚がある。
文化3年の社殿を大正11年改築、今日に及ぶ。神主は山田勝麿氏。
(昭和35年1月1日東和広報より)

外入、船越地区住民の長い間の熱望がかなって、今回簡易水道が完成し、5月20日に現地外入で通水式が行われた。

完備した水道施設は大川上流の砂防えん堤を利用して面積175平方メートルの人工ろ過床と、補助水源として下流に深さ15メートルのさく井2ヶ所、内径2メートル、水深8メートルの井戸を1ヶ所掘って、充分な水源の確保をしている。

配水池は標高5メートルの場所に鉄筋コンクリート造りで、貯水量60トンのものを造り、滅菌器2個を配置している。送配水管は家庭引き込みを除き、延長6088メートルの長さにわたっている。
ポンプ室は鉄筋コンクリート造平屋20平方メートルで、この中に電動機5馬力と直結ポンプ2台並びに8馬力エンジン1台、滅菌器2台を配置している。

消火栓は外入地区で9ヶ所、船越地区で3ヶ所計12ヶ所設置して同地区内の消火に万全を期している。
現在この水道を利用している加入者は253世帯で、今後公衆衛生の向上と生活改善が期待される。
(昭和34年7月1日東和広報より)

礒兼氏は小早川の重臣で末長左近大夫が礒兼氏をついだ。
左近大夫は、厳島合戦で陶方の水軍を切り崩し、大島海賊の大将一人である伊香賀十郎左衛門を討ち取ったが左近大夫も鼻と左股に切り傷をうけられた。
天文24年、小早川隆景から感状を受け、度々の戦功によって外入村300石の地を与えられた。
元和年中までここに住み郷に屋敷をかまえ河合、辻、平原などの重臣がいた。
泊浦に軍船をおいていた。
屋敷跡の石垣は今も残り礒兼屋敷と呼ばれている。
古墓は西光寺墓地にあり、宝筐印塔では町内で2番目に古い石塔墓である。
(昭和40年5月1日東和広報より)

外入・地家室間は景色の良い道路ですが、外入より山の中を通って地家室へ通ずる道路が完成すれば、また違った景色が楽しめることと思います。
工事が進められている地家室~白木港線は、外入、地家室、双方より工事が進められていますが、今年度は150メートル分の用地を確保しました。
この道路は幅5メートル、総延長2.3キロとなる見込みです。
(昭和48年4月1日東和広報より)

外入の世帯数の変動 
1960年 世帯数342・人口1490人
1970年 世帯数324・人口982人
1975年 世帯数314・人口825人
1980年 世帯数313・人口762人
1985年 世帯数300・人口664人
1990年 世帯数288・人口625人
1995年 世帯数280・人口557人
2000年 世帯数268・人口533人
2004年 世帯数248・人口477人
2010年 世帯数206・人口378人
2015年 世帯数163・人口301人